2014年2月6日13時
明洞へ戻ってきた私たちは、昨夜の興奮を思い出すナンタ劇場のある、ヌーンスクエアへ行きました。B1Fのスクールフードへ、ここで昼食にします。
トッポッキの辛さに参った私ですが、キンパッは美味しかったですね。妻は両方美味しかったと言っていました。まだ時間はあります。ソウルの観光は明洞から、そして〆も明洞になりました。やはりソウルを代表する繁華街であることには間違いないですね。
妻が、
「ロッティーボーイのパンが食べたい。あなたも口の中が辛いだろうから、コーヒーどう?」
それなら私に任せなさい。ずっと持ち歩いていたのでボロボロになってきたまっぷるソウルの付録、ソウル街歩きマップを取り出します。もうページも調べなくても明洞は18ページと分かっています。
ロッティーボーイは一発で探し当てられました。さすがはまっぷるです。そしてソウルっ子の俺。
美味しいコーヒーととろりと甘い蜜の入ったパンで一息つきます。
もうあとわずかな時間でソウルから離れるのです。面白かったなあ。本当に来てよかった。最後に名残惜しむように、4日間の思い出の詰まったこの町を歩きます。
警察署がありました。何やらゆるキャラがこんなところにもいました。
南大門市場の方が似合いそうなリアカーの果物売りもいました。
けっこう売れていますね。おいしいのでしょうか。
さて、そろそろ集合時刻です。14時55分、ホテルに戻ると李ガイドはもう来ていました。
車に乗り込みます。4日前の運転手とは違う人でしたが、こちらの方も親切で、運転は丁寧でした。
「空港まではもう2名の方が同乗します。PJホテルなので、そこまで迎えに行きます。」
車は数分でPJホテルに着きました。路側に車を停め、李ガイドは二人を迎えに行きました。
車窓からは街並みが見えます。ここは東大門に近いところなので、明洞とはやや空気が違います。
なかなか来ません。長時間路側はまずいのでしょう、運転手は結局ホテルの駐車場へ車を入れました。
まだ来ません。どうしちゃったのかな。
まだです。
、、、、、、、、。
あ、やっと李さんが来ました。同行者は続いて来ました。運転手は荷物をリアゲートを開けて積み込み、急いで発車させます。
乗り込んできた方々は、だれでしょうか?
はい、ご名答!昨日の水原で置いてけぼりになったあの2名のおば様でした。
車窓からソウルの街並みを見ていると、また私たちのホテル前を通過します。これで見納め、いや、また来るぞ!きっと。
坂を上ります。
「次の橋の上から右を見ると、南大門がちらっと見えるはず、ほら見えた!」
私が言うと、
「ずいぶんソウルに詳しくなりましたね。やはり自分の足で歩いた人は詳しくなりますね。」
と李さんが言ってくれました。
「はい、ソウルのことは何でも聞いてください。ソウルっ子ですから。」
生まれも育ちも東京ですが、ソウルにはもう4日もいるのです。
おば様、何か探し始めます。あれ、ないね、さっき有ったのに。
李さん、
「何か忘れ物ですか?」
「はい、カメラが、、、、、あ、あった、ここだ。」
パスポートなら戻るしかありませんが、それ以外なら他のお客様もいるし、飛行機に間に合わないと困るので行くしかありせんよ、と言われていました。
本当に、頼みますよ。
車の中で、昨日の話をしました。私たちが知り合いと聞いて李さんはびっくりしていました。置いてけぼり事件について、李さんは
「ガイドもいろいろ失敗を重ねてレベルが上がってくるんですよ。私もよく失敗します。」
でも、さすがに置いてけぼり事件はやったことがないそうです。
おば様たちも昨日は20時のナンタを観たそうです。2階席だったとのこと。プレミアムシートにも水原ツアーの同行者がいたので、10人中最低6人が同じナンタを観たことになります。
車は高速道路に入り、空港に向かっていきます。空港そばの干潟は、いずれ埋め立ててカジノを作るそうです。
カジノは興味ありますか、と李さん。
「ギャンブルは、人生だけで十分です。」
同乗者のおば様も、私も、干潟の埋め立てもったいないなあ、という感想でした。
もったいないという話のついでに出たのが、食品のこと。しかし、李さんはやはり腑に落ちないようです。これは文化が違うので仕方がないところでしょう。ナンタについても、本物の食材使わないと面白くないでしょう、という意見でした。そしてちょっと悲しそうな顔をしました。ちょっと失敗したかな。私たちの文化を押しつけ過ぎたかもしれません。
車は空港に近づきました。
「間もなくインチョン国際空港に到着いたします。昨日のナンタで声がかれております。」
と私が言いました。
大笑いしてくれた李さん、笑いながら、
「昨日いっぱい笑って、いっぱい叫んでって私、三毛さんに言いましたからね。」
と言ってくれました。私のフォローを感じてもらえたでしょうか。
車を降りる時、運転手に
「ギサニン、カムサハムニダ」
と声をかけました。笑顔で答えてくれる運転手。李さんもいい挨拶だと褒めてくれました。
ギサニン(技術者)は、運転手などの技能職種への褒め言葉だそうで、ガイドブックに載っていたので使ってみました。
空港では手続きも李さんがしてくれますから、ただ列に並ぶだけでした。おば様たちがトイレで居なくなったところで、そっと李さんが言いました。
「PJホテル前で長く待たせてすいませんでした。あの二人、私が行ってから荷物のパッキング始めたんです。やっと終わったと思ったら、パン食べたいって言うから、もう車の中で食べて下さいっていって強引にひっぱって来ちゃいました。」
やはり、、、、、、。
「また、ソウルには来てくれるでしょう?」
「はい、また来ますよ。必ず来ます。」
「その時には連絡してください。電話番号ずっと変えないから。」
「わかりました。必ず連絡します。」
バゲージを預けたら、次は手荷物検査です。列に並ぶところで、李さんにお願いして、妻と3人で写真を撮りました。
列はどんどん前へ進みます。一緒に進んでくれる李さん。
そしてついに、列は壁の中へ。李さんは壁で見えなくなるまで側にいてくれました。
イミグレーションを抜け、自分たちのゲートへ向けて歩き出します。免税店がぎっしり入っています。ピアノ重奏の生演奏がありました。
巨大な空港ですが、ゲートナンバーを目指していけば迷子にはなりません。ゲートの先には私たちの乗るシップが見えました。
出発はやや遅れましたが、その分空港でゆっくり景色を楽しみました。沈みゆく夕日で染まるインチョン空港はなかなか風情がありました。
機内では映画を観賞しました。今回はゼログラビティを観ました。ちょうど人工衛星の破片が飛んでくるところで気流が乱れてバーチャルリアリティな楽しみが得られました。
今回の旅行は久しぶりの海外旅行でした。一番最初に海外へ行ったのは二十歳の時でした。香港に渡り、中国へのビザを取りました。そして上海へ飛び、そこから寝台列車で烏魯木斉(ウルムチ)へ。自転車でシルクロードを走ってトルファンへ。カシュガルへ出て、バスでクチャ、コルラ、イーニン。漢族もウイグルもいない、キリギスの村も訪れています。いずれこの旅も紀行にまとめようと思ってはいますが、この放浪の旅が私の考え方に大きな影響を与えています。
中国と日本は政治レベルではうまくいっていません。しかし、週刊誌が書く様な「戦争だ!」「中国は本気だ」という意見にはうさんくささを感じます。週刊誌は売るための見出しが欲しいのでしょう。
生で、現地の人とのふれあいがあったので、中国でもいろいろな意見の人がいること、そして日本へは過去への怒りはありますが、現在の姿への憧れがあることも肌で知っています。差別的な態度をとる人には一人も会いませんでした。
中国人も人がいい人が多いのです。道が分からなければ、自腹でバス代を払って連れて行ってくれた人もいました。寝台列車の中では中国語を教えてくれ、さらに食堂車で豪華な中華料理をおごってくれる家族もいました。ホテルでチェックインに遅れ、締め出された時には粘り強く交渉してくれた人もいました。
インターネットでは汚い言葉で中韓をののしる輩が出没しています。しかし、それを書いている人は行ったことがあるのでしょうか?行きもしないで思い込みで情報を巻き散らかしているだけでしょう。
若いうちに、海外を旅しましょう。放浪の旅をすれば、その国が、日本にいて受ける印象とはまるで違う事を知るはずです。そしてその国の人を、文化を好きになれば、きっとあなたも現地で受け入れてもらえます。交流が盛んになれば、対立は減るでしょう。
本来、日中韓は、他の地域の人がうらやむような安定した地域のはずなのです。宗教、宗派の対立もなく、何千年と交流があり、漢字文化圏に属し、また国境もわずかな岩礁レベルでしか意見の相違がないのです。住む場所をすべて奪われた地域を思えば、解決はいかに簡単であることか。
若い頃放浪した時のことを思い出しながら、今回の旅を思い返していると、飛行機は滑走路へ滑り込んでいきました。
韓国もいい人いっぱいいたなあ。
まずはガイドの李さん。
粥の多味さん。
海苔屋のおやじさんもいっぱいサービスしてくれたっけなあ。
登山道具店の兄ちゃんもいい人だったし、カフェのお姉ちゃんも。
それから、それから、いっぱいいるけど、やっぱり李さん!
「反日」がいっぱいいるんじゃないかなんて思っていた俺、やはり海外にしばらく行っていないから、人間が小さくなっちゃっていたのかもしれません。
高砂駅でソースの匂いがしました。ああ、これ葛飾の匂いだ。甘い砂糖や化粧品の匂い、それに地下鉄から上がってくるグリスの匂いの明洞は、遠くなったんだなあ。