三毛ジャガーの物欲日記

オートバイ、自転車、登山、カヌーカヤック、スキーなどアウトドアレジャーを楽しんでいます。物欲にまみれていて欲しい物は買う、戴く、無い物が欲しければ作ってでも手に入れております。

タグ:東京都

今日は仕事で水元公園へ。菖蒲見物の送迎付き添いです。駐車場から往復などとてもできないご高齢者が対象ですので、菖蒲園入り口までピストン輸送を繰り返す方法をとりました。研修生、ボランティアに皆さまにもお手伝いいただきました。読んではおられないでしょうが、ここに御礼を申し上げます。

さて、最終の迎え便同乗中、現場担当「ジクサーオーナーなりかけ」S君へ電話連絡を入れました。

「10分程度で到着します。誘導をお願いします。」
「6時30分、6時30分、6時30分!」

「なんだ、それ。おい、聴いているのか、10分程度で到着だから、誘導しておいてよ。」
「土曜日、土曜日、土曜日!」

「おい、しっかりしろ、土曜日まで野宿か?何言っているのか分からないよ。」
「カッコいいです、かっこいいです、すっげーカッコいい!」

「俺のことか?まあそうだろうが、とにかく10分くらいだから、」
「違う違う違う、タッキータッキータッキー。」

全てを理解しました。先ほどの戻り便に乗った時のこと。緑ナンバーで全面黒ガラスに覆われたハイエースグランドキャビンが2台、やってきました。そして一台は路肩に、もう一台は公園内へと進入しました。路肩の方から派手な衣装の女性が降りて公園に入っていきました。女性は知らない顔でした。MXとかBSのロケでもやるのかな?位に思ってスルーしていました。

さて、現地について全員を乗車させ、現場を離れました。男性研修生、
「さっきのあの女性、クッキングアイドルアイマイマインのマインちゃんでした。僕結構好きなタレントだったんです。」

「!」

名前を忘れていましたが、後で調べたら福原遥さんでした。もう大人になっていたんですね。顔が大人になっていてわからなかくなっていました。ずいぶんきれいになられていましたね。S君がカッコいいですを連呼していたタッキーは滝沢秀明さん、その他三瓶にキャイーンなどもロケに来ていたのだそうです。

入念に時刻設定をして滞りなく外出行事を終え、事故なく終えられただけで本来は上出来という感じなのですが、さらに楽しいハプニングがあって、3便で参加された皆様は大喜びされていました。

それにしてもS君よ、「かっこいい」で俺のことか?と尋ねたら、「違う」というのはやめようぜ。
「それもそうですが、タッキーもカッコいいです。」
と本当のことを言おうぜ。次からでいいからさ。

今日はいろいろと忙しいのです。

まずは家事をこなし、フリーになったら銀行2軒を駆け回ります。一つは満期になったスーパー定期の書き換え、もう一つは息子の事故の免責分の支払いです。

アシはトラ次郎です。
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まだまだ用事は続きます。あちこち見て回った吟行の候補地ですが、俳句クラブの面々の総意で山本亭に決まったのです。その予約に来ました。
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この庭に、文化財の建物です。さぞかし良い句ができることでしょう。
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1年半ほど閉めてリニューアル工事をしていましたが、この佇まいは不変です。
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こちらの門から入れば足の悪い方でも入館しやすいけど、道が狭いなあ。
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用事が済んだら、洋次へ行きましょう。山田洋次ミュージアムです。
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入り口ではご本人がお出迎えです。
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山田洋次のメッセージが書かれていました。
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フィルムの展示です。シネマスコープサイズですから、ものすごく横長の画面です。
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監督はこのビューファインダーを使って確認していたのだそうです。
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倍賞千恵子、「下町の太陽」のレコードも展示されていました。
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「同胞(はらから)」の台本です。若いころの寺尾聡が青年団会長を演じていて、いい味出していましたね。彼の乗る車がジェミニで、他もいすゞ車両が不自然に多くてそこだけ違和感を感じたのを覚えています。
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たそがれ清平の母屋の模型です。貧しい下級武士の生活苦と上司命令で命がけのミッションに駆り出される悲哀、今に通じるものがあります。
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たそがれ清平が使用した短剣と木刀も展示されています。肝心の写真はボケちゃったので、今回はボツ!
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阪神淡路大震災被災者との交流も続いているそうです。山田洋次の人柄がしのばれます。
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その重鎮山田洋次が師事した師匠が、小津安二郎で、東京物語のシーンのオマージュが東京家族の中に織り込まれていたのだそうです。

下が東京物語、座っているのは笠智衆。
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こちらは東京家族、座っているのは橋爪功。
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山田洋次の監督作品がちりばめられた壁紙です。驚くことに、もう「家族はつらいよ2」が入っていました。いつ張り替えたの?
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入場券を持って行けば、寅さん記念館にも入れます。ここは2回見たことがあるけど、リニューアルしたそうなので入ってみましょう。
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照れ屋の寅さんは顔を隠しています。
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渥美清がメークを受けています。
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ちょっと込んでいました。空くのを待って左の動くジオラマを見学しました。
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1は、ガキ大将の寅。
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2は空襲をうけます。上からB29の編隊が影を落として次々と通過していきます。そして逃げ惑う兄妹。

出征していたお父さんが深夜に帰宅。裏から表へ、そして廊下に立つ少年時代の寅さんとさくら兄弟。
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16歳、ついに寅さん家出。追いかけるさくら。
「お兄ちゃん、どこへ行くの。」
扉が閉まる京成電車。そして高砂方面へ走り出します。鉄道模型マニアなら思わずうなる仕掛けでしょう。
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6では、20年ぶりに寅さんが帰郷します。源公が土手を駆け上がってお出迎え。
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くるまやへ入ってみましょう。これは撮影で使われていたセットで、大船撮影所の閉鎖でこちらで保管するようになったそうです。
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今でも営業していそうな雰囲気です。
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寅さんは寝ていましたが、音声さん、照明さんは頑張っていました。
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「このメロンはな、そもそも俺が旅先で大変お世話になりましたって言っていただいてきた物じゃないか。本当だったらな、俺の方からお前達も食べなさいって言ってしかるべきものなのに、なんだいこの家の連中ときたら、、、、、。」
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寅さんの部屋は2階にあるので、いつもこの階段を登っていきます。この建物にはもう一つ階段があるのですが、あまり使っているシーンは見かけないですね。
20作、寅次郎がんばれでガス爆発、ワット君が落ちてきた階段もこれですね。かなり急なので危険の伴う撮影だったことでしょう。
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おばちゃんが芋の煮っ転がしを作ってくれるキッチンです。配管を施せば、現役で使えそうです。
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くるまやを抜けると裏庭があり、その向こうには博の勤める朝日印刷があります。朝日新聞、アサヒビールに次ぐ、3番目に有名なあさひと付く会社でしょう。ただし規模は両社に比べてひどく小さいのですが。

2階は社員寮にもなっていますので、洗濯物が干してあります。独身時代の博もここに住んでいましたね。
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タコ社長と労働者諸君が働いています。一番奥が博です。
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印刷機も本物のようです。撮影用に用意したのでしょう。贅沢に予算を使っています。
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社長の机です。中小企業の経営は~と良く嘆いていましたね。
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くるまやの模型です。意外に床面積の広い建物ですね。階段が2つ、2階に2間に廊下のある贅沢な間取りです。ここでも寅さんは寝ていますね。帰ってくると寝てばかりでしたからね。
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帝釈天参道のミニチュアを歩いていきます。すると、
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葛飾柴又鉄道の故郷駅へ出ます。改札を抜けてみましょう。
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切符は硬質ですね。最近ほとんど見かけなくなってしまいました。切符自体、スイカ、パスモで使うことがめっきり減っていますけど。
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ボタンを押しました。帝釈人車鉄道を動かすことが出来ます。
金町駅を出た後、柴又に向かって走ります。押す人は一所懸命に足を動かしています。
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柴又駅には幼いころの寅さんが?そんな馬鹿な、時代が違うぜ。柴又に付いたら、土江の中を抜けて人知れず金町駅前のゲートの中へスタンバイ。土手の中を走っている時には足音が聞こえます。
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何と!復元ではありますが、実車もありました。
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扉は手動です。冷暖房対策でしょうか?なんて冗談はともかく、開くなら乗ってしまいましょう。いいよね、誰も見ていないし。
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結構狭いね。
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ご本人着用の本物です。本来女性物の生地で仕立ててあるだそうです。
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こちらは鈍行列車の旅、オハ35を再現してあります。おにぎりも展示物、私の弁当ではありません。
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寅さんそっくりの埴輪が出土、なんと8月4日と渥美清さんの命日だったそうです。その他、天体に寅さんと名前がついていたりするそうです。映画が作られなくなって20年を越えていますが、いまだにその存在は身近にあるのです。
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さて、トラ次郎で次へ行きましょう。南風に乗って、気の向くままに。
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今日は肛門科へ通院しました。その帰り道、仕事の都合で行く予定の上千葉砂原公園へ立ち寄りました。

上千葉と付くので、「千葉市の公園へ行く!」という勘違いがありそうですが、遠出を期待している方には残念ながら葛飾区内です。

まずは駐車場の位置とスペースを確認します。残念ながら公園とはやや離れた場所ですから、ドライバーは歩いて戻らねばなりません。

今回は2輪で行ったので入り口付近にある専用スペースに駐輪しました。丘がありますね。まずは登りましょう。
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残念ながら見晴らしはあまりよくありません。
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もう一つ残念なのは高圧線の鉄塔が2基も公園内に立っています。
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入場無料なのに、ふれあい動物園があります。今日はお休みでしたが。こちらはやぎ、
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隣は豚ですね。
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その隣はトイレ、さらに隣は、え、これ合ったんだ。妻の送迎なのですぐ側をよく通っていたのに存在を知りませんでした。D51蒸気機関車です。
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狭いレール幅にこの迫力のボイラーが乗るアンバランスは、ある種の凄みを感じさせます。
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2番目、3番目の動輪にはスリップ防止の砂を撒くと思われる管が付いていました。
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シリンダーも大きいですね。
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全てが頑丈そうな鉄の塊の部品で構成されています。整備は力仕事だったことでしょう。
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後部へ回ります。テンダーにも前照灯が付けられていますね。
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テンダーは人を載せないのが前提だからでしょうか、スプリングの両端にシャックルはなく、シャフトが通してあります。これだと摩擦が大きくて嫌な音が出そうですね。また、穴を大きくしてたわみに対する位置のずれを吸収するという荒業を使っています。なんか嫌だなあ。もっとも、他の騒音が大きくて気にならないのかもしれませんが。
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運転台にも登れます。
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運転台はアクリルでカバーされていました。文化財でもあるので必要な処置でしょう。
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圧力計の周りを回してから圧力を引き入れているのはなぜでしょうね。
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ここには沢山の石炭が積まれていたのでしょう。
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運転台から、シャフトが伸びて車軸の部分にある箱につながっています。カルダンジョイントでサスの動きに壊れないようになっていますね。これ、何を操作する物なのでしょう。鉄道にはあまり興味のない私ですが、SLは機械という観点から見ても面白いですね。
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砂原公園のもう一つの目玉は交通公園です。子供たちはここで交通ルールを学ぶことが出来ます。私も新宿の公園には何回も行きましたね。
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信号の先の登り坂は自転車専用で、ゴーカートは進入禁止になっています。
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子供向け遊具はもちろん、
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大人向け体力づくり器具もあります。
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ハイジャンパーはどれくらい高く飛べるかを確認できるものです。でも、中学生の時に垂直飛びをやり過ぎて左ひざに故障を抱えるようになった私の経験から、決して体にいいものではないですよ。やり過ぎには注意してくださいね。
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おやつは公園至近のベニースーパーが便利でしょう。
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雨が降りそうだから、もう帰るか。

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    ボクの最後の職場のすぐそばですね。知っていましたが行ったことがありません。
    奥方は、ここは「子供をポニーに乗せてくれるようだ」という情報から、「一度孫を連れて行ってみようよ!」と常々。
    いつまでも聞き流しているわけにもいかないかなあ。
    で、ポニーを見かけませんでしたか? 削除
    2017/3/6(月) 午後 5:17
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  • あ、知らなかったんですね。
    俺が物心ついた頃にはあったのでもう40年くらいはずっと展示されているんですよ。あのD51は。
    運転台は子供の頃はもっと自由に触れた気もしますが思い出補正かもしれませんね。
    むしろふれあい動物園の方が「つい最近」のイメージです(それでも20年くらいは経ってるはずですが)。
    モルモットを抱けるんですがかわいいですよ。 削除
    九太郎 ]
    2017/3/6(月) 午後 5:42
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    子供の頃、よく描いた絵ランキング
    1位ガンダム
    2位D51
    3位ザク
    同3位城
    といった感じでしょうか。 削除
    2017/3/6(月) 午後 6:48
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    > 山のmochiさん
    ポニーなど、動物ははたまたま休養日だったようで、外へは出ていませんでした。お子さんが楽しめる遊具もあるし、きっと大喜びするでしょう。息子と娘も父に連れられてここへ来たことがあるようです。 削除
    2017/3/6(月) 午後 9:59
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    > 九太郎さん
    知らなかった~。すぐ隣をしょっちゅう通るのですが、立ち寄ったことはなかったのです。仕事で必要な下見もなかなか楽しいものですね。

    物心ついた時にはもう展示されていたというあたりが不思議な感じです。古い時代に博識な九太郎さんなので、「物心ついた時にもまだ現役でした。」というのかと思っちゃった。

    まさかね。 削除
    2017/3/6(月) 午後 10:03
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    > くまそんさん
    子供の頃、ガンダムの絵を描いていた???
    おお、ずばり、九太郎さんと同世代だ! 削除
    2017/3/6(月) 午後 10:04
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    我が家も子供が小さなころは近くの交通公園に毎週末通ってました

    あの頃が懐かしいなあ(#^.^#) 削除
    2017/3/7(火) 午前 11:06
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    > ぶーぶーさん
    子供の成長は本当に早いですね。そして、自分の老いも相当な速度です。寂しいものですね。 削除
    2017/3/7(火) 午後 2:03
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    小さな子供と行くと喜ぶ公園ですね!

    ミニ動物園?、遊具、デカイSL,交通公園と
    親子で楽しめる公園ですね 削除
    beat1 ]
    2017/3/8(水) 午後 8:14
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    > beat1さん
    仰る通り、幼児から小学生向きに考えられているようです。そういう所は意外にも老人が行っても楽しめるのです。高齢者は幼児が好きなので、彼らが遊んでいればなおいいですね。 削除
    2017/3/8(水) 午後 9:44
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    この記事を見てたら「お見事!」忘れ去っていた記憶がよみがえりました。 幼い頃に遊んだ平井公園にも足漕ぎカートがあったな~♪って。今もこんなステキな公園があるのも嬉しいですが、よみがえった記憶に超驚き! 何せ小学校低学年の時の事ですから。(o^^o) 削除
    玉造
    2017/3/9(木) 午後 7:46
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    > 玉造さん
    交通公園は案外数多く存在するようですね。私の知るだけでも4カ所にあります。交通ルールとマナーを学ぶのに役立っていることでしょう。

    車間をつめてくる輩にはここからやり直させたいですね。 削除
    2017/3/9(木) 午後 9:07
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ブログにカテゴリは後に変更するかもしれません。なんかずれているでしょうから。

さて、今日は天気の良い休日です。世間も昭和の日というなんだかわかったような、わからないような日ですが、それはひとまずおいといて、今日は午前、午後と夕刻の3部構成となっています。

まずは午前中。水元公園を走りました。しかし、人出が多いので走行に気を使うので、普通の人があまり来ないような場所を選んで走りました。バイクはリカンベントを使用しました。これ乗っていると、子供達に手を振ってもらえます。特に男の子には興味を持ってもらえるようです。
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中央広場周回路は人出が多いですね。
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しかし、一本奥の道にはまばらにしか人はいません。
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さらに未舗装路には人の気配さえありません。
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これは園芸ボランティアでしょうか?
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水元公園に来たことのある人でも、水辺の野草園がある事を知る人は少ないでしょうね。
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この辺りにも菖蒲田があるのですが、あまりメジャーではありません。最盛期でも案外ひっそりとしています。写真家の方々はむしろこちらに来る方々の方が高価な機材を使う人が多いように感じています。写真に写っているように、手入れをしている最中でした

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上の写真の右の一部をズームして撮影してみました。こちらの方もボランティアで虫を取って下さっているのでしょうか?それともそう見せかけて実は詐欺だったとか。
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あれ、一部にもう咲いているところがありますね。和服のおねえちゃんの撮影をしていました。
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本当に人に出会わない道です。
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しかし、野鳥観察舎は人だかりになっていました。
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水元公園の対岸は三郷公園です。宅地開発されてしまいそうになり、水元公園の景観保全のために埼玉県に働きかけて緑地公園にしてもらったのだそうです。ここで有料渡し船やればもうかるのになあ、といつも思います。ちなみに、1981年の映画、ええじゃないかは、撮影はここでしました。ここに大きな両国橋がかかり、なかなか面白かったですよ。
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メタセコイアの森を行きます。
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艇庫もあるのです!レガッタなどがおいてあります。渡し船ができないわけないのになあ。
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水元大橋を渡ると、菖蒲祭の会場へ出ます。こちらまだ咲く気配さえありません。
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でも、花は菖蒲ばかりではないのです。
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藤が咲いています。
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午前の部はここまで、家に帰って陸上部から帰宅した娘と昼食を食べました。

午前に大掃除をしたら、午後は友人S先生と下町散歩です。
 
実は、彼は別荘を名古屋に持っていまして、そちらに招待されていたのですが、フェースブックのメールへ投稿したしたものが掲載されませんでした。返事がこないと思った彼は計画を流してしまっていました。こちらは準備万端、朝、メールを確認してその事実に気が付いた次第です。送信箱を見るとちゃんと送られているのですが、、、、、。
 
気を取り直して、次善策を講じました。S先生からお尋ねがありました。
「坂を上らず、船に乗らず、何かいいアイデアはありますか?」
いいアイデアはありますよ。でも、その両方を取られちゃうと何にも残りませんがな。
 
彼からの提案で、下町フィールドワークに出かけることにしました。集合は押上駅A2出口、時刻は13時。行先は京島から母校の曳舟周辺。防火対策で戦火を逃れた町の再開発を確認しに行くのです。
 
さて、この地について書くと、いくつかの問題が生じます。
 
その一番はプライバシーの問題です。日曜日だったせいもあり、多くのカメラを抱えた人々に出会いました。しかし、ここは観光地ではありません。普通の人が、普通に暮らしているところです。そこをやたらと写真に収めてウェブにアップすることは避けるべきでしょう。
 
そして被差別地域もあることです。これについては解消されていると信じたいのですが、残念ながらインターネット上にはいまだに差別発言が多く散見されます。差別をするということは無知の証なのですが、部落、民族、性の差別は解消しているとはとても言い難い状況なので、ここでは助長しないようにはっきり書かないこととします。
 
押上駅に着くと、アナウンスは京成線であっても
「次は、押上、押上、スカイツリー前です。」
となっています。そこで、まずはソラマチへ突入します。
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日曜日とあって人出がすごかったですね。私たちが高校生の時、押上なんて京成の本社があるくらいしか存在を知りませんでした。景気を「押し上げる」縁起のいい名前だと、「車だん吉ぶらり旅 京成線編」(車だん吉著)に出て来ます。あの本の発行が2001年くらいだったはずですから、予言したことになるのでしょうか。
 
屋上へ出てもクリスマス系のイベントをやっていました。ただの通りすがりですのでよくわかりませんけど。スバル車の展示もありました。
 
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撮影データ PENTAX K100 レンズ MC ZENITAR‐M2.8/16 FISH-EYE 絞りf=5.6 シャッター速度自動
 
まずここを見て、それからそのすぐ近所との対比を考察します。
スカイツリーから徒歩で数分で、この大衆酒場へ到着します。大衆の酒場というと、現在の感覚では3次産業のサラリーマンが新橋のビルでビールを飲んでいたりするのをイメージしたりしますが、つい数十年前まではこっちが主流でしょう。職工が一日の疲れを癒しに通っていたイメージの店、とS先生は言っていましたが、まさにそんな感じですね。
 
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路地歩きをします。路地にはいくつかの種類があります。奥になっていて通れないので、他の家の敷地を通してもらっているものとか。普通の道路が両側の家が張り出して路地になってしまった物や、水路が有ったところを暗渠にしたところなどもあります。この路地の成り立ちは、と推理すると、いろいろなものが見えてきたりします。ブラタモリでもやっていましたね。
 
途中で幅が変わっていたりするところは、家が張り出してしまっていることろでしょうか。やたらとマンホールやハンドホールがあるところは、下に水路が残っているかもしれません。明らかに他人の敷地の奥にある家は、かつて同じ大家さんが経営する長屋だったんでしょう。
 
そして驚くのは、わずかな隙間があれば植物を育てています。これも江戸時代から続く長屋文化の継承でしょう。
 
キラキラ橘商店街へ来ました。ここではコッペパンの専門店、はとやでコッペパンを買いました。写真撮影はNGだそうです。
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キラキラ橘の住民です。こんな雰囲気、かつては日本中にあったはずなのですが、今となっては貴重な存在でしょう。日本が均質な変化をしてしまっている中での無変化、かえってそれが個性的な街になってしまったのかもしれません。
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さて、いよいよ本題の災害対策を見て行きましょう。住宅が狭い路地を挟んで密集しているので、延焼が怖いわけです。江戸時代には広小路を設けて大規模火災に備えたわけですが、その仕組みは現在でも変わりません。こうして所々広く作って延焼を予防することが基本のようです。現地に建てられていた案内板です。
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戦前から続く街並みの破壊でもありますが、これは間違った政策ではないと私は思います。街の雰囲気を残せないことを批判する人もいるようですが、やはり人の命を一番に考えてしかるべきでしょう。
 
こうして井戸水をくみ上げる手動ポンプも所々用意されています。
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公園には太陽光発電と災害トイレ用のマンホールがありました。
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木造家屋をコンクリート建ての集合住宅に変える事業も進んでいるようです。現在工事中の所も多く見られました。
 
やがて曳舟へ出ました。ここ20年で曳舟は大きく変わりました。京成曳舟駅は登り線が高架になりました。下りも近々なるようです。駅前には映画、「下町の太陽」で倍賞千恵子が働いていた資生堂のせっけん工場があったのですが、もう影も形もありません。
 
そして駅前には大きなイトーヨーカドーが。お腹が減ってきたのでここで軽食タイム。
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魚眼レンズで撮ると大きく見えますね。
 
母校のすぐ目の前で、中華料理屋が営業していたのですが、廃業したばかりか、建物さえなく防災公園になってしまっていました。かた焼きそば大盛りが高校生に大人気で、運動系の部活の生徒に愛された店でした。ワンゲル部は山に行くのにお金がかかるので、外食はまずする人いませんでしたけどね。
 
中華料理屋の前は図書館がありました。建物はありますが、不思議なことに閉館してしまっていました。高校と敷地を接する図書館なので、高校生の時にはよく利用していたのですが、どうしてしまったのでしょう。
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飲み会の集合は京成金町に17時です。ここであと1時間くらい暇があります。東向島駅には東武鉄道博物館があるのでそこを見学という手もあるのですが、俺が行くと1時間で出るなんてもったいないという鉄ちゃんのS先生、散策継続を主張しました。まあ、私的にはどちらでもいいのです。鉄道学芸員の解説を聴くのもよし、地理の専門家の解説を聴きながら歩くもよし。
 
東向島駅は、私が高校生の時には玉ノ井という駅名でした。駅名変更に、まあそんなこともあるだろうて、くらいの感慨だったのですが、今は分かります。むしろ、1983年高校入学なのですが、その時に「まだ」あの、「玉ノ井」を名乗ってしまうことの方が遅れていたということが。
 
現在は「玉ノ井」の面影はほとんどないようですがタモリ氏がぶらりとすれば何かしらの形跡を発見することでしょう。でも、NHKで、というか公共電波で放送できるかな~。
 
ここからかつての同級生の家へ行く道を辿りますが、建物が変わってしまっていて案外難しい道でした。同級生の家はもはやなく、現在どこかへ移ってしまっている模様です。
 
そこから工場地帯を歩きます。この界隈は悲しい歴史がたくさん積み重なっているのです。その一つが下の写真の石碑です。
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朝鮮人、韓国人殉難者供養の碑です。この辺りで、大震災時に多くの朝鮮人が民衆や、こともあろうに官憲に殺害されたのです。
 
朝鮮併合はフェアだった、朝鮮人の要望だった、朝鮮人の為になったと書いている人がいてびっくりします。この碑は当時の日本人がいかに差別的に扱っていたかを示す証でもあります。
 
深く手を合わせ、冥福をお祈りしました。
 
八広の駅に出ました。既出の「車だん吉ぶらり旅、京成線編」で、車だん吉氏は「何もない駅」と述べています。まさにそれ以外に言葉がありません。強いて言うならば、自動販売機が駅前にありました。
 
車氏はこの地で人形作家とお話をしていますが、どこのあるのかはわからず終いでした。
 
私が高校生時代、この駅はもっと土手に近いところにあり、あらかわという駅名でした。
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快速が止まらないことは変わりありません。いや、当時快速はなかったなあ。特急、急行、普通の3種だけでした。今は複雑すぎてどれがどこに停まるのか、地元なのにわかっていません。
 
S先生の調べたとおり、集合時刻3分前に京成金町駅に集合しました。そして久しぶりに会う友、恩師、今年一年の感謝と再会の喜びであっという間に夜は更けていきました。

  • 界隈は懐かしいなあ。ボクの最後の職場はその曳舟運河(江戸時代の用水兼用)の舟を引く人たちの休憩所があった場所=お花茶屋ちかくでしたからね。細い運河の岸には桜が植えられていたそうですね。 削除
    2013/12/12(木) 午後 11:04
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    山のMochiさん、コメントありがとうございます。

    荒川放水路ができる前は東西曳舟川もつながっていたんですね。けっこうな長さです。重機のない時代に、よく作ったものです。先日は両親がやはり向島界隈を散歩してきました。

    山のMochiさん最後の職場は、息子の友人でスポーツ好きな男たちが多く集まっています。彼らも、暗渠と化して親水公園になってしまいましたが、曳舟川の歴史に触れることがあるのでしょうね。 削除
    2013/12/13(金) 午後 8:16
    返信する

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