探したけど写真が出てこない!申し訳ございませんが、ネットからの拾い物です。
無題 (591x322)

大学生の時、叔父の所で夏休みに電気工事のバイトをしていました。元から電気や土木が好きだったこともあり、1か月ちょっとのバイトの間にある程度の知識、技術を持つことができました。夏休みが終わって学校へ行くと、体育会山岳部の先輩が(私は体育会ワンダーフォーゲル部)バイトの話を持ってきました。電気工事の会社で梱包開けや資材運搬のバイト探しているけど、そういうのに使えるのは山やっているやつという偏見から私に声をかけて来たとのことです。ちなみにこの先輩、富山県警山岳救助隊へ就職いたしました。

電気工事のバイトできますよ。梱包開けなんて容易すぎますぜ、こちとらケーブル埋設の溝堀りも、電柱に登って線を引っ張っていたこともありますから。

「よし、お前やはり第一候補だ。いついつ面接だから、ここへ行くように。」

時はバブル景気真っ最中の1989年でした。その年の6月に先輩からもらったKP61スターレットの維持費と山行費用捻出のためにバイトをしたかったので、まさに渡りに船でした。

指定された時間に行くと、おじさんたちがゾロリと揃っていました。
「F君から聞いているよ。制服はこれ、開始は明日から。学校は優先していいし、山に行くときには遠慮なく休みとって。」

え、面接じゃなかったの?

「F君が太鼓判押すからさ、大丈夫。」

そして次の日からその会社で働くことになりました。現場は新築の高層ビルで、照明器具をリフトであげて開梱、器具付けをできるようにセットすることでした。F先輩の顔をつぶしてはならないと猛烈に働きました。午前中に予定の仕事をあらかた終えてしまいます。そして昼休憩。近所の中華料理屋へ連れていかれて炒飯大盛りをごちそうになりました。隣にはその会社で2番目に若い電気工事士、Iさんが座っていました。この方も炒飯大盛りを食べていました。

「三毛君、ずいぶん働くね。そんなに働くと疲れるでしょう。」

いや、資格がないから、力で稼ぐしかありませんから。

「あんまり働くと俺がさぼっているように見えちゃうよ。」

そして午後、残りの器具を処理していました。するとそのドライバーを回す手つきを見ていた職人の一人が、
「三毛君手が早いし正確だよ。腰道具ぶら下げて器具付け出来そうだよ。結線だけ他の人がやればいいから、天井付けは任せられるよ。」
と言ってくれました。器具のセットを終えた所で腰道具の予備を貸していただき、二人一組で行う器具付をIさんと行うことになりました。

Iさんとおしゃべりを楽しみながらも手を猛烈な勢いで動かし、次々と器具を付けて行きました。そして夕刻。社長から終業の声がかかりました。

「三毛君のおかげで早く終わったよ。F君の言うとおりだった。いい人紹介してもらって本当に良かった。」

そう言ってくれました。それから週5日、山に行かない週は6日か7日も働くことになりました。何しろバブル絶頂期、電気工事の仕事は3年先まで埋まっているほどの建築ラッシュだったのです。

Iさんは仕事以外の付き合いもするようになりました。車好きという共通点もあり、また歳が3つしか違わなかったのでお兄さんのような感じだったのです。そのIさんの愛車がタイトルのスープラ3000GTターボエアロトップでした。夜、学校が終わると校門前に迎えに来てくれて、夜の首都高をこの車でドライブに連れて行ってくれました。横浜の夜景スポットを教えてくれたりしました。加速は猛烈で、シートに背中がめり込むよう、マニュアルのセカンドでも加速中にホイールスピンを起こすほどでした。逆に私のKPでドライブしたこともありましたが、ガチガチに固めたラリー仕様のサスに付き上げられてIさんの虫歯が傷みだし、もう帰ろうとなったこともありました。いや、ここでエアロトップの悪口も書いておきましょう。雨の日にブレーキを踏むとサイドウインドーの上から前に向かって漏れてきましたね。


また、ご自宅も訪問したことが有ります。場所は佃島で下町情緒あふれる所でしたが、時はバブル、タワーマンション建設のために立ち退くことが決定していました。

やがて私はバイトをやめ、今の会社に就職しました。しかしIさんとの繋がりは続きました。時々連絡を取っては会い、ドライブしたりファミレスで食事をしたりしました。

やがてIさんは友達3人と行ったスキー場で「上から落ちてきた」女性と知り合い、付き合うことになりました。ところがこの女性、長崎県の方で、超遠距離恋愛をすることになったのです。

ちょっとでも休みがあれば車で延々高速を走って長崎県まで行って会いに行っていました。車はご家族のコロナで、80㎞/hで坦々と走るとすごく燃費が良いのだそうで、1回給油をすればたどり着けるのだそうです。

やがて二人は結婚しました。私も披露宴に呼んでいただき、ギター弾き語りを披露いたしました。下手で申し訳ないことですが。歌ったのは薬師丸ひろ子の手をつないでいてでした。

新居にもお招きいただきました。奥様の作る皿うどんは長崎の名物だそうで、ものすごくおいしかったのを覚えています。

次は私が結婚する番です。Iさんにも報告するととても喜んでくれました。その時、悩みがあったのでIさんに相談しました。妻の実家は岩手県で東京(父の出は千葉で親戚はほとんど千葉)と風習が違うこと、また妻も披露宴だけでなく神前式をやりたがっていることなどです。信仰していないのに?

「そうか、それなら解決は簡単だな。奥さんになる人の希望を全部聞いてやればいいじゃん。」

Iさんぐちを聴いてくれると思っていたのでびっくりしました。しかし、Iさんは続けます。

「君が結婚するのは奥さんだけだけど、ご両親がいることを忘れてはいけないよ。あの人なら安心だ、良い人と結婚できたと思ってもらうには、絶好の機会じゃないか。そもそも披露宴って、親戚に理解してもらうためにやるんだから、それがけち臭いって思われたらダメじゃないか。大事に育てられた娘さんをもらうのだから、それが男の責任だよ。」



「だいたいがさ、そもそも披露宴って新婦の為にあるんだよ。男はいないと成り立たないから居るだけ。好きなようにやってもらって、満足してもらえたら大成功、金で済むのだからむしろ安い物さ。」

Iさんのご指摘を受けて、結婚式の神髄を知ることができました。なるほど、その通りです。カネカネ言っているのは愚の骨頂、この際なんでもやりましょう。

しかし、残念ながらIさんはその披露宴には来ていただけませんでした。電気工事関係の試験と日程がバッティングしてしまったのです。お祝いを頂いたので、後日妻と引き出物を持ってお礼に伺いました。妻が満足できる式が挙げられたのはIさんのお言葉があっての物ですから、二人で感謝を申し上げました。

やがてお互いに子供が出来たりして連絡は年賀状だけという状況が続きました。でもそろそろ子供も手が離れて来たし、スマホも購入したから連絡取ってみるかな。なんて思っているとコロナ禍です。これが開けたらIさんの家行ってみるか。

二日前、当直明けで帰宅したら、テーブルの上に訃報が届いていました。Iさんはお亡くなりになったとのことです。56歳でした。差出人はスキー場で上から落ちてきた奥様でした。

俺はまだまだこっちで機械いじりしているから、そっちで気長に待っていてください。ご冥福をお祈り申し上げます。

久しぶりに泣きました。





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