旅の始まりはここ京急鶴見駅から。自転車を組み立て、走行開始です。今日は暑かったけど天気は最高、気分良く走れそうです。ヘルメットにはウェアラブルカメラを取り付けました。走行動画も撮るのです。

まず向かったのは母の生家があったところ。今もある森永製菓鶴見工場はその土地の一部が母の父(つまり私の祖父)の所有で、その不動産収入で生計を立てていたとのこと。地代を取りに行くとき、母は母のお父さんに連れられて工場の事務所へ行き、そこでキャラメルなどをいただいていた記憶があるそうです。

母の一番最初の戸籍謄本に記された町名はすでにないのですが、横浜市で公開している住居表示新旧対象表によるとこのあたり一帯がそれに相当します。もう他の方が住まわれているので撮影はこれ以上は控えました。路地の向こうに森永製菓の工場が見えます。

平屋の大きな
古い家屋が残っていました。空き家でしょうか。母が住んでいたのはおそらくこういう家だったのでしょうね。

敷地はかなりの広さになります。

次に向かったのは、祖父の本籍地です。ここも今は分譲されてしまいましたが、大きなお屋敷だったそうです。ここの三男だった祖父は明治から大正、そして昭和の初めにかけてアメリカで働いていたそうです。明治生まれにして早稲田大学卒業だったそうで、当時三男でそこまでしてもらえたというのは珍しいことだったでしょう。

崖の下は空き地だったのかもしれません。今は公園になっています。

このあたりに母の旧姓がついているアパートがあったようですが、今はもうないのかな。

さて、次はみその公園に行きました。ここにある屋敷こそ、祖父の父の実家なのです。

横溝屋敷ですから、母の旧姓はもうお分かりでしょう。現在市に寄付され、公開されていますので見学してみましょう。
これが主屋ですね。

農機具も寄付され、展示物となっています。私にとって曽祖父は現役で使っていたものでしょう。あるいは小作に作らせて自分は農作業していないかな?

茅葺の屋根が美しく手入れされています。これ維持するの大変でしょうね。

入ってもいいようです。ちょっとお邪魔しますよ。

靴を脱いで上がらせていただきました。ちょっと場違いな服装ですね。自転車で来ちゃったからね。まあ親戚だから許してもらうとしますか。(意味不明)

広いうえに部屋数も多いですね。1階をぐるりと回ったら、階段で上の階に行ってみましょう。

いやその前に気になる展示物が。雛人形なのですが、なにか母の物と共通点を感じます。もっとも、母の物はたいそう小さいもので、「空襲に遭った時に持って逃げられるように。」と特別に作ってもらったものだとか。そして空襲を逃れるためそれを持って相模原へ疎開したそうです。

上の階では獅子ヶ谷の昔を現した立体地図がありました。今では考えられないことですが、横浜市も郊外は雑木林の山林だったのですね。

倉は北側にも南側にもありました。どんだけ資産があったのでしょうね。なぜそれが私の方には1円も回ってこないのか、不思議です。

他にも色々と面白い展示があるのですが、紹介はこの辺で。それでは次行ってみましょう。

獅子ヶ谷にはいくつもの道路があり、わざわざ上り坂を行かなくても川崎方面には行けるのですがここはこのルートを通りたいところ。というのも、江戸時代にはこの峠を越すルートしかなかったというのです。その登りはじめにあるお地蔵様。ここからは道も狭いし登りも急なのでダンシング(立ちこぎ)を強いられます。

峠を越えたら獅子ヶ谷の交差点まで下り、そこからは鶴見獅子ヶ谷通に戻ります。そして鶴見から川崎に向けて走ります。
暑いですね。日陰で一休み。

次に向かったのは母の通っていた高校です。今時学校を撮影するといろいろと問題になってしまうこともあるので写真はなしで。高校の隣にあるスーパーで水分とカロリー補給の食品を購入したので、近くの公園で一休み。

日陰で飲む冷たい飲み物は最高だね。

さて、そろそろ帰らないと。夕食を作らねばなりませんから。

京急川崎駅まで走り、そこから再び輪行します。

高砂まで乗り換えなしで来れる幸せ。こうしてみると母の生まれ育った地は案外近かったのに、なぜ母が生きているうちにこれができなかったかなあ。

あとは帰るだけ、、と思ったらこんなハプニングに遭遇。水筒のストラップが前輪に絡んで取れなくなっちゃった小学生二人組が困っていました。

よし、俺に任せろ。工具を取り出し、前輪を外して絡みを取りました。
「すごいですね、ロードバイク乗っていたりするんですか。」
まあね。
試走してみて、大丈夫だったのでこれでサヨナラ。

自宅到着は18時を回ってしまいました。それ急げ、今日の夕食は豚肉ときのこのブラウンソースだ。

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まず向かったのは母の生家があったところ。今もある森永製菓鶴見工場はその土地の一部が母の父(つまり私の祖父)の所有で、その不動産収入で生計を立てていたとのこと。地代を取りに行くとき、母は母のお父さんに連れられて工場の事務所へ行き、そこでキャラメルなどをいただいていた記憶があるそうです。

母の一番最初の戸籍謄本に記された町名はすでにないのですが、横浜市で公開している住居表示新旧対象表によるとこのあたり一帯がそれに相当します。もう他の方が住まわれているので撮影はこれ以上は控えました。路地の向こうに森永製菓の工場が見えます。

平屋の大きな
古い家屋が残っていました。空き家でしょうか。母が住んでいたのはおそらくこういう家だったのでしょうね。

敷地はかなりの広さになります。

次に向かったのは、祖父の本籍地です。ここも今は分譲されてしまいましたが、大きなお屋敷だったそうです。ここの三男だった祖父は明治から大正、そして昭和の初めにかけてアメリカで働いていたそうです。明治生まれにして早稲田大学卒業だったそうで、当時三男でそこまでしてもらえたというのは珍しいことだったでしょう。

崖の下は空き地だったのかもしれません。今は公園になっています。

このあたりに母の旧姓がついているアパートがあったようですが、今はもうないのかな。

さて、次はみその公園に行きました。ここにある屋敷こそ、祖父の父の実家なのです。

横溝屋敷ですから、母の旧姓はもうお分かりでしょう。現在市に寄付され、公開されていますので見学してみましょう。
これが主屋ですね。

農機具も寄付され、展示物となっています。私にとって曽祖父は現役で使っていたものでしょう。あるいは小作に作らせて自分は農作業していないかな?

茅葺の屋根が美しく手入れされています。これ維持するの大変でしょうね。

入ってもいいようです。ちょっとお邪魔しますよ。

靴を脱いで上がらせていただきました。ちょっと場違いな服装ですね。自転車で来ちゃったからね。まあ親戚だから許してもらうとしますか。(意味不明)

広いうえに部屋数も多いですね。1階をぐるりと回ったら、階段で上の階に行ってみましょう。

いやその前に気になる展示物が。雛人形なのですが、なにか母の物と共通点を感じます。もっとも、母の物はたいそう小さいもので、「空襲に遭った時に持って逃げられるように。」と特別に作ってもらったものだとか。そして空襲を逃れるためそれを持って相模原へ疎開したそうです。

上の階では獅子ヶ谷の昔を現した立体地図がありました。今では考えられないことですが、横浜市も郊外は雑木林の山林だったのですね。

倉は北側にも南側にもありました。どんだけ資産があったのでしょうね。なぜそれが私の方には1円も回ってこないのか、不思議です。

他にも色々と面白い展示があるのですが、紹介はこの辺で。それでは次行ってみましょう。

獅子ヶ谷にはいくつもの道路があり、わざわざ上り坂を行かなくても川崎方面には行けるのですがここはこのルートを通りたいところ。というのも、江戸時代にはこの峠を越すルートしかなかったというのです。その登りはじめにあるお地蔵様。ここからは道も狭いし登りも急なのでダンシング(立ちこぎ)を強いられます。

峠を越えたら獅子ヶ谷の交差点まで下り、そこからは鶴見獅子ヶ谷通に戻ります。そして鶴見から川崎に向けて走ります。
暑いですね。日陰で一休み。

次に向かったのは母の通っていた高校です。今時学校を撮影するといろいろと問題になってしまうこともあるので写真はなしで。高校の隣にあるスーパーで水分とカロリー補給の食品を購入したので、近くの公園で一休み。

日陰で飲む冷たい飲み物は最高だね。

さて、そろそろ帰らないと。夕食を作らねばなりませんから。

京急川崎駅まで走り、そこから再び輪行します。

高砂まで乗り換えなしで来れる幸せ。こうしてみると母の生まれ育った地は案外近かったのに、なぜ母が生きているうちにこれができなかったかなあ。

あとは帰るだけ、、と思ったらこんなハプニングに遭遇。水筒のストラップが前輪に絡んで取れなくなっちゃった小学生二人組が困っていました。

よし、俺に任せろ。工具を取り出し、前輪を外して絡みを取りました。
「すごいですね、ロードバイク乗っていたりするんですか。」
まあね。
試走してみて、大丈夫だったのでこれでサヨナラ。

自宅到着は18時を回ってしまいました。それ急げ、今日の夕食は豚肉ときのこのブラウンソースだ。

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コメント
コメント一覧 (2)
お母様の世界をホンの少し見せていただきました。
掘り起こせば、誰もがその人だけのドラマを生きていた。
何よりの供養に思えました。
三毛ジャガー
が
しました