2013年02月

2010年夏、常念岳~大天井~燕岳縦走中、テント場で妻に定時連絡をしました。私専用の携帯電話をようやく買ったばかりで、今ひとつ使いこなせていなかった時期です。
 
「急に山行きたくなったの、山行十話読んだからでしょう。」
「そんなことないよ。ここ毎年ずっと山行っているじゃない。一人で行くのが久しぶりなだけでしょう。」
「だって、コースもダブっているから。」
 
それほど単純な動機ではないんだけどなあ、と思いながらも、全否定できないのも事実です。
 
その年の山行は娘と妻を連れて北沢峠から仙丈を登頂しました。片頭痛に悩まされて激しく嘔吐、妻に荷物を持ってもらってなんとか馬の背ヒュッテまでたどり着いたのはアサヨ峰記で触れています。その前年までだと、息子のサッカーチームの合宿へ私も参加していたので山は1回きりでしたが、この年から中学生、体が空くので山に行くことにしたのです。
 
ちょうどそのタイミングで読んだのが山行十話。高校の山岳部が常念から槍ヶ岳に行き、大キレットの方から来る筆者と合流する話が書いてありました。私の行ったことのない山でしたので、行ってみたくなりました。一番の目的は、いずれ妻子を連れて行くための下見という意味ですので、それを念頭にルートを選びました。そこで、鎖場の嫌いな人たちでも行けるルートとして表銀座を選定してみたのです。
 
前回のコメント欄で予告した通り、今回の話題は近年私が最も読み返す回数の多い本、「山行十話~晴れの日ばかりが山でなく~」にいたします。十の山行の話をまとめた、ライトなガイド本と思いきや、なんとも表現のしようもないほどの重たい内容までも含む、山にまつわる人々の記録です。高校山岳部顧問の筆者は部員の遭難、山に同行した同僚教諭の病死といった重荷を背負って生きています。その心の内と関係する人々のことが綴られています。
 
執筆者は私のブログの友人、山のMochiさんとも関わりのある方です。私もずいぶん前ですが、お会いしたことがあります。高校社会科の教諭でした。
 
さて、本の中についていくつか紹介しましょう。まず楽しく読めるのは1話、南アルプスの南、茶臼岳登山の記録です。高校生たちのなんとも楽しそうな様子と、天候と装備の古さに苦しめられるようすが鮮やかに描かれています。ゲートの門番の役人的態度など、読んでいるこちらも同じような目には数度あっているので一緒になって怒ってしまいます。赤石岳が遥かになってしまうのはコヤツのせいです。ここに、1年生の中にとびきりの山バカが混ざっていて、その片鱗が見えるのですが。
 
そして2話、まさにその、1年生の山バカが丹沢に消えるのです。通報の致命的な遅れを生む連絡体制や、計画書が2通あり、相違点が認められて搜索に障害になってしまったり、確保もせずに滝へ取り付いたりと多くの無謀な点があからさまになっていきます。高校生のレベルをはるかに超えた冒険で、山岳部としては予想外の行動でした。
 
その2話は、私の山行計画書の基本をなしている柱の一つです。書き方などは大学時代のワンゲルの計画書になぞっていますが、実際の遭難で役に立つ計画かどうか、それが理解してもらえる書き方をしているかどうか、はこの本(正確には前著、今日も山の話)を元に考えることにしています。
 
実はこの「消えた少年」のお父様もそのことを本にまとめています。「亮太~父と子の山~」私が高校に入学し、ワンゲル部に入部することを父に申し出たその日、この本を与えられました。父の視線から見た親子関係と、高校生活、そして遭難の話。考えさせられることも多くありましたが、山岳技術や確保用具の自作など、憧れという余計な感想を持ってしまったのも事実。まだ高校生だったからでしょうか。もちろん、多くの人への迷惑と与えた悲しみ、そして親の落胆に、慰めようのない深さは感じ取っています。
 
さて、なにゆえ何回も読み返してしまうのでしょうか。ひとつは私の教養不足で一回読んだだでけは意味が通じない点があることもあります。特にヨブ記の部分は聖書に関する知識の極めて乏しい私には難解であります。それでも読書百遍、意自ずから通ず、のことわざもある通り、なんとなくわかる気もしてきました。
 
しかし、もちろんそれだけではありません。わかりやすく書かれているところでも何回も読み返してしまうのです。
例えば山行計画の時に
「そういえばこの山からあのルートが見えるな。」
と気がつくとその部分を読み返したくなり、帰ってきてからまた読むと、ああ、なるほどここのことだったか、となるのです。新田次郎の小説でも同様の楽しみはありますが、あちらはあくまでも小説、脚色が混ざっているのです。山行十話は全てノンフィクションなのでその楽しみは格段に上です。
 
そして読み物としても面白いのです。バッカスO崎さんの逸話など、抱腹絶倒間違いなしと言い切れます。
 
この山行十話には私の行っていない山がまだまだ多くあります。見たことのない景色でも、美しい表現で綴られているので楽しく読めてしまいますが、実際に行ってみないとこの作品が本当に表現したかったことはわからないでしょう。何年もかかりますが、完登したいものです。
 
1話から10話まで全部紹介、解説したいところですが、まだお読みでない方もいらっしゃるでしょうから、ここまでにさせていただきます。ちなみにアマゾンなどで購入可能です。
 
名著に導かれて、(あるいは騙されて)また山への思いを抱いてしまうのです。
 
この本の紹介を持って、「私の師3部作」を終了します。字ばかり無駄に長い文章にお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

「ガンちゃん先生」でも出てきた、「社会科の三浦友和」について今日は書いてみます。実はこの方、その3年生の時の担任で、この方も山登りをされる方でした。先日スキーへご一緒したのはご存知のとおりです。
 
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中学3年生へ進級した私は、7組になりました。教室へ入ると、黒板に大きく
「ようこそペンギン村へ」
とかかれ、あまり似ていないDrスランプアラレちゃんの絵が書いてありました。一体どんなセンスなんだか、という思いと、忙しい中、生徒に合わせるために漫画を読み、TVを見ているその熱意に感心する思いと半々でした。ちなみに私は自転車が忙しく、どちらも見ていませんでした。
 
その「ようこそ」の下に席順が書かれておりまして、私は窓側一番前でした。となりに女子を挟み、さらにそのとなり、教卓すぐ前にM君がいました。
 
当時背が高い方で、視力もめちゃめちゃに良かった私はまず前の席になることはなく、新鮮な心持ちで席に着きました。M君は何故か耳鼻科通院の時に一緒になったことがあり、それも違う耳鼻科にかかっていたのですが、行き帰りの自転車が一緒になり、会話をしたことがありました。いままでクラスは一緒になることはなかったのですが、彼は名前が売れていたので顔と名前は知っていました。おそらく彼もそんな感じで私を見ていたことでしょう。あ、耳鼻科のM君だ、と思い、なぜだかその時から好意を持って彼と同じクラスになったことを喜びました。
 
担任は今でいう御大、社会科の三浦友和を自称するイケメン先生、当時29歳です。この先生はクラス対抗行事でやたらと熱くなることで知られていました。体育祭、合唱コンクールでは、練習がとにかくハードで、クラスが優勝しなければそのクラスの生徒はどんな目に合わされるのかわかったものではありません。
 
当時から私は機械が好きで、技術室へ掃除当番で入ると、技術の先生たちがコーヒーを入れてくれて機械談義をしたり、工作機械を触らせてくれたりしていたので、とても楽しみでした
 
この三浦友和先生も無類の機械好き、学校の拡張工事ではかなりの無理を言って視聴覚室に高価な機材を入れることに尽力していました。ソニーファンの彼らしくベータマックスのデッキにサラウンド音響システム、大画面映写機が入り、授業でよく活躍していました。新しい物好きな私が楽しくないはずもなく、いい先生だな、と思ったものです。そして時々挿入される山の話。
 
しかしそれは私がただの機械マニアであっただけの話、それで終わるわけはないのです。この先生の本質に気がつくのは、むしろ卒業してからでした。
 
卒業5年、二十の時。成人式の後、なんとご自宅に卒業生を招待してくださったのです。大して広くもない(失礼!)部屋にすし詰めになり、お祝いをして下さりました。この時の写真は大切にとってあります。肖像権の問題がクリアされればアップしたいくらいです。これが本質の話?いやいや、続きをお読みください。
 
その後、その先生は出世をしていくのですが、個人特定につながりかねないので詳しくは書きませんが、ただの出世街道ではないのです。学校の管理職が現場をダメにしているという思いから自分がなって改善しようと思い立ち、次は教育委員会がダメ、とそこへ乗り込み現場を支援し、文科省にまで口出しを始め、そして定年前に燃え尽きて引退しました。
 
自分が出世したくて、ではないところがミソなのです。現場で苦しんでいる人を、そしてそのことを通じて最終的には生徒を、救いたいという思いからの行動なのです。
 
今では大学の講師をなさっていて、後進の指導に情熱を注いでいるそうです。そう、彼の生き方こそが、私たち卒業生への強烈なメッセージになっているのです。
 
私が就職した頃はバブル真っ最中でした。どの企業でも良い条件を提示し、とにかく来てくださいと今では考えられない状況でした。しかし、私たちはそんな生き方に、当然のように背を向けてしまうのです。
 
M君は農学部を出たあと、青年海外協力隊でアフリカ某国へ農業指導に3年行きました。
私は、まあいろいろやりたいことをやってしまったつけもあるのですが、給料が安くて有名な福祉の道へ進んでしまいました。
 
さらに、私とMくんの高校の友人、shi*a,,,,,77の就職の世話をしていただき、彼も準卒業生として今でも鍛えてくださっています。
 
私たちが金銭や社会的地位ではない価値感を持っている影には、いつも社会のために、他人のために、何ができるかを考えて、一所懸命に行動する彼の姿があるのです。
 
先日のスキー旅行では、今までにない話題が出ました。それは高齢化社会です。地元の老人問題を大学生をうまく使って解決できないか、と本気で何か行動するような感じでした。「一隅を照らす」ことに専念することにしていた私には話が大きすぎる感じです。
 
さて、中学生当時、勉強もしないで自転車に熱中する私を変人扱いすることもあった三浦友和先生ですが、数年前の年賀状に
「最近ロードバイクにはまっています。ホノルルセンチェリーラン完走しました。」とありました。
家は比較的近所なので、道路から覗いてみると、なんと!家の中にロードバイクが置いてあるではありませんか。自転車を家の中にしまうまでハマるとは。ふふふ、私の方が先見の明有り、という部分もありましたね。
 
この先生は体育祭、文化祭、修学旅行や移動教室、もちろん授業でも、面白エピドードがあります。機会があったらまたブログで紹介していきます。あ、それから、私が自分や友人をやたらとイケメンというのも、三浦友和を自称していたこの先生の影響です。
 
※社会科の三浦友和先生、このブログに問題がございましたらお申し出ください。訂正、削除をいたします。

今日は娘の小学校がサッカー大会決勝リーグに参戦するので、観戦に行きました。
 
予選では勝ち越しましたが、結果2位リーグでの戦いとなってしまった今日はどうでしょうか。早朝から練習してきたので良い結果を期待したいところです。
 
男子は2位リーグでも奥戸の総合スポーツセンターの人工芝で開催されますが、女子は1位だけ、2位リーグは小学校の校庭がピッチとなります。残念。
 
さて、娘の大会ですが、3戦全負け、2位リーグ6位となってしまいました。審判が先生方で、一度は講習を受けたそうですが、やはりミスジャッジが目立ちました。その意味ではすっきりしませんでしたが、今回は監督の采配にいちゃもんを付ける親もなく、チーム内は和気あいあいとしていて、気持ちよく観戦できました。誤審はプロでも珍しいものではありませんし、それで結果が変わってしまってもそれを含めてのサッカーですから。
 
何回も早朝練習練習しました。そして今日も、懸命に走り回ってボールを追いかけました。勝つことこそ出来ませんでしたが、先生方のご苦労はきっと選手たちにも十分伝わったと思われます。勝つための最善を尽くした時には、結果はどうあれ、終了後の感動があることでしょう。それを欲して、私もけして勝つことのないレースに向けてトレーニングを積み、節制した生活をするのです。

ガンちゃん先生の思い出を書いたのですが、ちょっと書き方に問題があったので、ここで先生の名誉回復をさせていただきます。
 
まず、私が数学嫌いのままという件(くだり)、彼の授業が分かりにくい、興味を引かないという意味ではありません。高校入試で足を引っ張る教科にはなっていませんでした。これは私の父が数学科の教諭で、そのコンプレックス作用があったり、私の性格にマニアックな性向があったため、当時はまり込んでいた自転車とは関係ない物(ほぼすべての教科です)への興味がなかったことなどが主たる原因であります。
 
ラジオの録音を流したことについて、記憶がある、などとあいまいな表現にしましたが、その授業は強烈な印象だったのでほとんどすべてを鮮明に覚えています。
 
朗読は中年の男性アナウンサーで、朗読中、
「すいません、ちょっと込み上げてしまいました。最後まで読み通せる自信がなくなってきました。行ける所まで努力はしますが、もし、読み通せなくなったらごめんなさい。」
という言葉を挟んで続きを読み上げました。終盤は完全な涙声でしたが、最後まで読み通しました。
 
終了後、クラスはシーンとして、重苦しい雰囲気に、そして泣いている女子も数名おりました。ガンちゃん先生、
「死を前にしても、希望を捨てずにこんなにがんばっている人がいました。皆さんはどうですか。自分のことを、一回よく考えてみてください。一生懸命頑張っていますか。」
 
ホームルームが終わってから、ぼそぼそっと
「こっちもうるうる来ちゃってやばかったです。ちょっと効きすぎでしたね。やばいなあ、次からもう少し軽いのにしとこう。」
と、担任に打ち明けていたのを私は聞き逃しませんでした。
 
いや、余計な話が入ってしまいましたが、それくらい良いホームルームをやっていたのです。
 
一句献上
静けさや 胸に染み入る 岩の声
 
タイトルは魯迅の「藤野先生」を意識して付けましたが、本文も合わせてきれいにまとめようとしてかえって失礼な表現になってしまいました。
 
 
さらに、「もうすぐ還暦」も失礼だったかも。御大の3年後輩でしたが、計算すると御大は「まっすぐ」ではなかったのでさらに一つ年下かもしれません。
 
さて、名誉の回復をしたところで、私のブログですので道具に関するエピソードを。
 
当時、同級生とサイクリングに行っていたのですが、出先で非常持ち出し袋に入っていた固形燃料と、燃焼台、小さいコッヘルを持って調理に使っていました。固形燃料がなくなってからは、牛乳パックを持って行き、それを燃料代わりに燃やしていました。なかなか湯が沸かず、ストーブが欲しくして仕方がありませんでした。ガンちゃん先生に、授業の後、質問があると言って尋ねました。
 
「ストーブ?俺はEPI使っているよ。BPの方。キャンピングガスもあるけど、あっちは火力弱くて。一度セットするとガス缶外せないし。EPIがいいよ。」
 
彼は来客があると、EPIで湯を沸かしてコーヒーを淹れていたそうです。今でもEPIを使うとガンちゃん先生を思い出すのです。
 
爪切りにも印象的な話があります。
 
職員室へ用事があって行ったとき、ガンちゃん先生は爪を切っていました。爪切りの横にセロテープを貼っていて、切った爪が飛ばないようになっていました。あ、これ新聞に書いてあった、と言ったら、
「いつの新聞?先月くらい、そうだろう、これは俺がずっと前からやっているんだ。俺が自分で考えて始めたの。新聞の方が俺の真似してんだよ。」
 
その後、爪切りに爪が飛ばないようなケースが付くようになり、儲け損ねたな、と思う次第です。

先日、中学生の時の担任とスキーに行った話は前回のブログに書きました。長々とおしゃべりをしたのですが、その中で大変に懐かしい名前が出てきたので、今日はそれを取り上げることにします。
 
ガンちゃん先生です。彼は数学科の教諭として、私の中学入学と同時に、新卒で赴任してきました。
 
当時はツッパリブームとかで、マスコミがそれを肯定的に取り上げたりするものですから非行が流行のように蔓延していて、校内暴力、いじめなどが頻繁に発生して我が校も在学中に新聞沙汰を起こしたこともありました。クラスの誰がかとんでもないことをしでかすと、そこは担任か生活指導の出番、今では確実に問題になる方法で指導しておりました。しかし、それは崩壊を防ぐぎりぎりの線であり、それ以下では校内治安の維持に効果的ではないと親も生徒自身も思える範囲内から逸脱していなかったとは思います。
 
ガンちゃん先生はそんな荒れている下町の中学校に新卒でこられ、面食らっていたかもしれません。
 
私のクラスの副担任となった彼は、ホームルームの時間等で話をする機会が数多くありました。新潟県のご出身で標準語の取り扱いがあまりうまくないのですが、一生懸命話す内容を練り上げて来ているようで、聞きごたえのある話をピタリと時間内に収めていました。ラジオ番組を録音してこられ、それを教室で流して聞かせてくれたこともありました。10代で病気で亡くなった方の、最後の日記の朗読であったと記憶しています。また、小学生の時に新潟地震に遭われ、液状化したり、建物の倒壊した恐怖を語ってくださいました。
 
その彼の趣味が登山でした。私の父もハイキング程度はやっていたので、小学生時代に秩父や武蔵野の方へ時々連れて行ってもらっていたのですが、彼はもっと本格的な山男でした。ホームルームでは担任が見ているせいもあり、余談雑談はほとんどないのですが、数学の授業では誰も見ていないのをいいことにかなり山の話が挿入されていました。
 
「朝、目が覚めてテントから出てみたらガスってて真っ白、本当に自分の足も見えないくらい濃い霧で、まいったなあ、と思っていたんだけど、そのうち日が昇る時間になったらまん丸の小さい虹が下の方に見えて、その虹の中に影が映っているんです。俺が手を振ると影も手を振って、これブロッケン現象と言うんだけど、、、、」
 
数学の時間は大好きで、いつ山の話が出るんだろうとワクワクして待っていました。問題を解きたいという気持ちは全く起きませんでしたが、山に登りたいという気持ちだけはどんどん膨らんで行きました。
 
見かけはいわゆるイケメンではなく、天パ気味の髪に理屈っぽさを感じさせる眼、全身から「数学科ですよ」オーラを出していました。社会科の三浦友和と言われるイケメン先生などもいる中で、女子の人気はそこそこだったように記憶していますが、山の話をする彼は私には抜群にかっこよく思えたものです。
 
その秋、授業中にとなりのクラスの担任の話をし始めました。
 
「○○さんは怖い人だよ。今度の連休どうするの、というから○○山登ってきますって言ったら、今は勘弁してくれよ、給料日前で香典出すのが辛い、って言うの。」
 
私、すかさず手を挙げて、先生、質問!
 
「連休明けの自習課題は作ってから行くんですよね?」
 
クラスはどっと湧いたのですが、ガンちゃん先生、かなり真面目な顔で
 
「帰ってくるよ、何言ってるの。」
 
まだまだ余裕が足りないな。私の期待は
「そういうこと言うと課題の量増やしてから山行くぞ!」
だったのですが。仕方がないか、まだ半年だ。(こういうこと言うから先生方に生意気だと嫌われる)
 
そんなガンちゃん先生が大好きだったのですが、卒業以来会うことはありませんでした。そして私は数学嫌いなまま高校へ進学してワンゲル部で山にのめり込み、現在に至るわけです。思えばスキーだってワンゲル部で冬山登山のために仕込まれた訳で、今滑りが楽しめるのもガンちゃん先生のご指導のおかげかもしれません。
 
隣のクラスの担任、怖い人○○先生は3年生で私の担任となり、こちらは現在に至るまでお付き合いさせていただいております。ご存知の通り先日のスキー旅行でご一緒致しました。スキーに行ったというより事実上しゃべりに行ったに等しい旅行でしたが、その中でガンちゃん先生のその後について伺うことができました。ご結婚され、新潟に戻られたとのことです。わが町に開校される大学にご子息がいらっしゃるということで、こちらにこられることもあるとのこと、御大を訪ねてくることもあるというので、その節には是非とも私もお呼びいただきたいものです。
 
もうすぐ還暦になられるガンちゃん先生、今でも息子さんと山登りをされているとのこと。あなたの一番最初の山の弟子は歩荷要員としてお供いたしますよ。


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なんかホロリだなあ! 貴殿は幸せだったかも。
ボクはあいにく中学でも高校でも、自分が心底納得できる教師はいなかったなあ。そこそこいい教師はいたけれど。
ボクがそもそも学校嫌いだったからかも。 削除
2013/2/22(金) 午後 9:25
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通学の幸せ、それは私も思います。学校はさまざまな問題を抱えてはいましたが、本当にいい先生たちに巡り合えたと思っています。卒業式にはツッパリ少年たちもみんな目を真っ赤にして泣いていました。

とにかく楽しく、有意義な中学校生活を送ることができました。そのせいか、その当時のことはいろいろな場面を鮮明に覚えています。卒業後もそこで得た物は人生に有効に使われております。 削除
2013/2/22(金) 午後 11:15
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