10月に下見から始まった初詣、本日無事終了しました。天気に恵まれ、風も弱く大変な好評だったことでしょう。記録も一通り終わり、ほっと一息ですね。担当の皆様、本当にお疲れさまでした。
家族からせがまれていた稀勢の里グッズのお土産、、、、はまだなかったので、納豆と水戸の梅です。
本当に藁で発酵させた納豆は本当においしいですね。
さあ、明日も仕事だ、頑張ろう。
オートバイ、自転車、登山、カヌーカヤック、スキーなどアウトドアレジャーを楽しんでいます。物欲にまみれていて欲しい物は買う、戴く、無い物が欲しければ作ってでも手に入れております。
マイクロバスでお出かけでしたか? お仕事としてのイベントおつかれさま!
牛久沼のほとりには「橋のない川」の著者、住井すゑさんが住んでいました。「橋のない川」はずいぶん感動して読みました。
一度行ってみたいところです。
旅行お天気でよかったですね。
いえ、運転は専門家にお願いしました。バスも豪華な観光バスです。
通学で使っていた京成線には、行商専用車両が用意されていました。大きな籠を担いで、さらに手にも袋をもって売りに行くおばあさん達がいっぱい乗っていましたね。懐かしいです。
橋のない川は奈良県がモデルであったと記憶していますが、てっきりあのあたりに在住かと思っていました。牛久沼のほとりにも居住していたんですね。牛久は車でも、電車でも、自転車でも比較的よく通過します。そして沼はカヤックで漕いでいましたが、住井すゑが住んでいたことは初めて知りました。石碑でもあるのでしょうか、今度探してみましょう。
こんばんは たびたびすみません。
住井すゑさんは母と同年くらいで顔も似ています。牛久沼のほとりで
90何歳かまでお元気でした。
この人は昭和天皇が嫌いで対抗心を持たれて、昭和天皇よりは早く死なないど言ってましたが、やはり長生きしましたね。
私は昭和天皇は大好きなんで複雑でした。
重ねてのコメントありがとうございます。
長生きした方が勝ち、という意地の張り方は素敵ですね。私も長生きすることにしましょう。
その時は、古い記憶(免許を取ったばかりの高校生の時、父親とオートバイ2台でツーリングに出た帰りにウナギの蒲焼きをたくさん買って帰り、父親が母親に「こんなにいっぱい買ってきてどうするの」と怒られた)にあるうなぎ屋を捜しに来て見つからず、でもせっかく来たのだからと立ち寄ったのでした。
住井さんの自伝には戦前・戦中の牛久沼での暮らしの様子がとても巧みに描かれています。また以前、毎日新聞には増田さんという住井さんの娘さんが論説委員でおられ、彼女の戦時中の体験談を聴いたことも思い出されます。
詳しい解説ありがとうございました。今度探していってみます。
みなさんは文化の恩恵が受けられていいなあ~。福島のザイゴでは何も見られません。山ばっかです。
せいぜい野口英世ですが、私、この歳になってもあの人の偉さが理解できません。
小学校以来伝記を何度も読みましたが、どこが偉いんだかさっぱりわかんないんです。
そういうことだから、いつまでもウダウダしてんですよね。
野口英世は、あの時代にアメリカに渡り最先端の研究をしていたのですから、これは偉人と言って間違いないでしょう。人柄や研究結果がさほどないという部分を取り上げる向きもあるようですが、生きた時代を考えれば賛辞を贈るのが適当であると私は思います。
福島は好きな地で、よく行っています。
少年時代、海と言えば毎年いわきの豊間の民宿へ長逗留、中学校の移動教室が安達太良、自転車で放浪の旅をしていて二十歳を迎えたのは五色沼のほとりで野宿で目を覚ました時、小野川湖ではキャンプしてカヌー、子供が出来てからはハワイアンズへ何回も行き、子が成長してサッカーをやるようになったら合宿はJビレッジ、スキーは羽鳥湖、まだまだ書ききれないほど福島には通っています。
裏磐梯は中学2年の時が初めてです。昭和32年頃でした。磐梯山初登山が昭和37年(1962年)でしたね。
スキー場はまだあまりなく、奥羽本線板谷駅から歩いて五色温泉の五色スキー場に通って練習しました。スキー担いで1時間も歩くんです。高校3年生のころです。昭和36年(1961年)粉雪のいいスキー場でしたが、今は営業していません。
一緒に行った仲間は皆この世の人ではありません。
20代30代はスキ―で山ばかり歩いていました。
ずいぶん懐かしい話です。当時は山形県まで行ってスキーをやっていたわけです。板谷駅は米沢市です。
当時を思い出して書きたいですが、年寄りの回顧録みたいになりそうで躊躇するものがあります。
思い出と原発日誌はどうもマッチしないようです。あははは。
私のブログも何でもありになっています。タイトルとの整合性はこの際あまりお気になさらずに。
スキー縦走の話は大変に興味深いものです。ぜひとも読みたいところです。
スキー縦走は私の書庫に少しあります。ほとんどが吾妻山ですが安達太良、磐梯山、など近辺の山が多いです。
1965年当時は楽しみはあまりないので、スキーで吾妻登山をする人が多く、お正月など4,50人が登ってきました。
大学のワンゲル部なども来ていましたよ。吾妻小屋です。
スキーは札幌秀岳荘製の山スキーです。それに出たばかりのジルブレッタを装着していました。当時のはジルブレッタはカンダハ―のようにワイヤーでした。
ストックはトンキン竹のでっかいリングのついたやつでした、
リングがでかいと、制動力が大きいので忍法股制動、忍法木の葉かぶりができます。荷物が重いので転んだらおしまいです。だから転ばないスキーを心がけました。
股制動は2本のストックの上に全体重をかけて乗っかるんです。
30センチも沈む新雪の時はこれしかありませんね。ボーゲンも通用しないときがありますよね。
木の葉かぶりは早くいえばグリセードです。荷物の時はクリスチャニアは無理ですから細い林間はストックを2本にして体重をかけて、ピッケルのグリセードの要領で滑ります。
出どこは中尾佐助教授です。「照葉樹林文化」です。
私がこういう話に興味を持つきっかけはうどんを食っていた時でした。小麦はどこから日本に伝わったのだろう?という疑問です。
そしたらやはり「小麦の話」という本があって木原均博士がコーカサス地方まで出掛けて調べていて、とうとう小麦の原種を見つけたわけです。「タルホ小麦」といいます。
日本人の中にもそういうことに興味を持つ人が何人かいるんです。
おもしろいですね。比較文明とか文化人類学とか呼ばれています。
本多勝一さんはああいう風になる前までは最先端の文化人類学者でしたよ。木原博士の弟子です。そのために千葉大学から京大に転校したんです。
原発事故前はこういう話ばっかり調べていました。政治や原発の話はずいぶん無理してしてんです。好きではありません。
山の話や文化人類学や生物学の方が何より楽しいかわかりません。
原発事故さえなかったならもっと楽しいブログが書けたと思います。
もっともパソコンを覚えたのは原発事故のためです。
ネットの世界は驚きでした。いろんな人に会えて楽しいです。
股制動は先輩からの指導でやり方は聞いていましたが、実際にはあまり制動効果がなかったので遊びでやる程度でした。
懐かしい話がたくさん出てきて、とても面白く読みました。時間がある時に、書庫からお邪魔させていただきます。ありがとうございました。